11/04/2008

一日千年の暮らし

一日はあっという間に過ぎていくであろう、
バビロンの中でそのスピードで生きているならば

朝、茶を飲んで、畑を耕し、
10時にまたコーヒーを飲み日差しを浴びながら
畑を耕し
昼になれば、土間でスーフィーの音を背に深い深い読書をしたら
2時浮かんだ気分をギターでうたったり
詩を書いてみたり、絵を描いてみたり
散歩に出かけ、神社で祈りながら、季節のうつろいを体と心で感じる
夕方日が沈む前には紅茶を飲んで、
もう一度祈りを捧げ、畑の上に浮かびだす月をただぼんやりとながめる
夜の食事の準備にかかると
畑の野菜をいるだけ採ってシチューにしたりスープを作ったり
庭の柿を食材に混ぜて食べるのも、、
君に作った食後のチャイをシタール音楽を背にゆっくりと飲み干せば
何気ない一日は終わろうとしているけれど、
こんな一日は千年にも二千年にも感じられる時がある
何気ない瞬間を自然の流れと共に深く味わえばそれはどんな時でも
永遠と呼べるものを感じられるのではないか、、

教育過程を終え、社会に出て
資本主義型経済社会のスピードに
ついて行くのも行かないのも自由だけれども
それは本来、自然や宇宙が兼ね備えた暮らしのリズムとは
あきらかにかけ離れたものがある。
人々は心身ともに病むこともあるが
それでもその流れの中で必死に生きてゆこうとするのが
現在この日本国の中での美徳でもある。
ドロップアウトしてまた違った価値観の元で生活してみるのも
少し目と心を見開くだけで、全く違った心身共にも満ち足りた世界が
存在することに気づくよしもない。
一度しかない人生、あっとゆう間に終えてしまうもよしだけど、
も一度、夜空を見つめて、一日千年の暮らしを始めてみるのもよいのじゃないか?

一生はあっという間に過ぎてゆくだろう、
バビロンの中でそのスピードで生きてゆくのならば、、

生まれた瞬間から、このバビロンスタイルの刷り込みは始まっているともいえるだろう。
常識と呼ばれるものはそのほとんどが非常識であり、
本来あるべき常識の姿とはとてもじゃないがかけ離れたものがある
スローライフなんてゆう言葉はバビロンが行き過ぎた自分達のファストなスピードからみた造語で
本来、この暮らしはスローでもなくてニュートラルな速度だといえるだろう
町にある野菜はほとんど、農薬にまみれ安全な食一つ確保できないバビロンでもあるが
そのピラミッドはどんどんと巨大化する一方で誰も顧みようともしないのも現実である
巨大都市は日に日に肥大化する一方で文化とも呼べないような骨抜きのアートで金も集める
ふと目をそらすだけでそこには新しい世界があるのに、
今はあまり見えないしアンダーグラウンドでありすぎるが故に人々はその心身みちたりた
すばらしい世界に気づくよしもないのである。
しかし、この日本国に置いても、他国に置いても、その世界は確実に存在していて、
その世界が繋がり、手を結び合ってゆくことにより光のネットワークが今も尚、形成されているのである。新しい世界がみんなの前に現れ、世界が変わりだすのも、もはや時間の問題であるといえよう。

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